体験記

脳出血体験記

制度の解説には書けない、実際にどうだったか。発症した日からのことを、発症からの日数の順に記録します。

書き手:2025年2月 脳幹出血。四肢麻痺(主に失調)・構音障害・車椅子。

注意:これは一人の当事者の体験です

ここに書くのは、私の身体で起きたことです。脳卒中の症状や経過は、人によって大きく違います。体に異変を感じたら、ためらわずに救急車を呼んでください。治療のことは、必ず主治医に確認してください。

発症した日のこと

朝起きて、いつものように朝食を食べ、シャワーを浴びた。

すると、目の奥に、ひびが入ったような感じがした。体がふらつき、倒れそうになった。

急いで体を拭いて、リビングに倒れ込んだ。

なにせ、仕事に行かなければならない。1時間ぐらい寝ていたら治るものだと思っていた。

ところが、まったく良くなることはなかった。

目が覚めたような気がしたときは、おそらく呼吸困難だったのだろう。

灯油を吸い上げるポンプのようなものが、のどから出てきて、周りの空気を全部吸い取ろうとしていた。

自分では、「ああ、これはもう死ぬな」と思った。

私は前々からずっと、自営業をやって、好き勝手に生きてきた。だから、「いつ死んでも悔いはない」と言っていた。

実際に、そういう場面を目の前にしても、間違いなく「まあ、しょうがないか」という感覚だった。

悔いがあるとか、やり残したことがあるとか、そういう気持ちにはならなかった。

ただ、よく言う走馬灯とか、お花畑とか、三途の川とかは、まったく現れなかった。

そうこうしているうちに、母が救急車を呼んだ。そして、病院に搬送された。

救急車に乗ったときのことは、なんとなく覚えている。「仕事の相方に、今日は仕事ができないと連絡しないといけない。でも、電話がない」。そんなことを、ぼんやり考えていた。

病院に運ばれてからは、とにかく、ものすごい金属音が頭の中に鳴り響いていた。たぶん、あれはMRIの金属音だったのだろう。

医者から、こんな言葉をかけられたような気がする。

「脳出血ですね。ちょっと、出血したところが厄介ですけど、看護師さんの言うことをちゃんと聞いていたら、治りますから」

人工呼吸器を付ける

診断は、脳幹出血。その中でも、橋出血というものだった。ちなみに、出血量は5ミリリットルだった。

呼吸障害、運動障害、意識障害、嚥下障害が現れた。自力でうまく呼吸ができないため、どうやら人工呼吸器が装着されたようだ。

装着したときのことは、まったく記憶にない。痛いとか、苦しいとか、まったく感じていなかった。

リハビリ病棟に移る

この頃は、人工呼吸器も外されて、車椅子に移乗できるぐらいの状態だった。

自力での呼吸が戻ったのは、かなり奇跡的なことだったようだ。ただ、呼吸はとても弱く、大変だったような気がする。

リハビリは、3人がかりで無理やり歩かされているような状態だった。記憶は、あまりない。

車椅子に座っていられる時間も、20分ぐらい。それ以上になると、体幹が弱っているので、座っていられなくなる。

あとは、久しぶりに重力を感じるので、とにかく首が痛くてしょうがなかった。

この頃、一番きつかったのは、痰の吸引だったように思う。

短い時間で、のどに違和感が出る。そのたびに、吸引をお願いするわけだが、吸引している間は、一瞬、真空のような状態になって、息ができない。それはそれは、苦しいものだった。

ほかにも、歩くリハビリで立っていても、足の裏の感覚が薄いので、立っている気がしない。当然、歩いている感覚もわかりづらい。鏡に映る、自分が立っている姿を見ても、半信半疑だった。

リハビリ病棟に移ることは、たしか主治医から聞いたと思う。ただ、この頃はまだ声を出すことができなかったので、うなずくしかなかったように思う。

リハビリ病棟に移れるということは、ステージが一つ上がったような気がした。すごくうれしかったことは、覚えている。

やっと何かを口にする

ある日、言語聴覚士の方が現れた。そして、ブドウ味のゼリーを、スプーンで少しずつ食べさせてくれるようになった。

この頃は、鼻からチューブを入れて、流動食をとっていた。だから、のどを物が通るというのは、とてつもなく久しぶりのことだった。

飲み込みがうまくいくかを確かめる訓練だった。テストはスムーズにクリアした。飲み込むこと自体には、特に問題がないようだった。

ただ、この頃はまだ声を出すことができず、意識もはっきりとはしていなかった。

窓の外には、原色の絵の具で塗りつぶされた怪獣やロボットが、うろうろしているように、私には映った。

少しずつ意識がはっきりしてくる

この頃になると、意識がだいぶはっきりしてきた。

食事も、ペースト状のものから始まって、だんだん固形のものも食べられるようになってきた。

ただ、上肢の力は、まだまったく戻っていなかった。肩の痛みも、まだピークだった。

座っていると、とにかく、肩に重りをぶら下げているぐらいに痛い。

スプーンで食事をとれば、スプーンを持っているだけで、息が上がるほど体力を使った。途中で、力尽きてしまうほどだった。

意識がある程度はっきりしてくると、心配になるのは、退院後の仕事、お金、生活のことだ。

まだあまり回らない頭を、何とかフル稼働させた。退院後に、どういう仕事で社会復帰をするか。ひたすら、そればかり考えていた。

入院生活もだいぶ板についてくる

この頃になると、リハビリが1日に約3時間、みっちりあった。

言語聴覚士の方は、若い女性が多かった。ほぼ話しているだけで、リハビリの時間は過ぎていく。時間になると、「はい、お時間です」と言われる。まるでキャバクラのようだな、と思っていた。

こっちは、どうにか話そうと頑張っている。その頑張りとのギャップに、妙な気持ちが募っていった。

家に帰ったときを想定して、生活を支える動作の練習も増えてきた。

あれほど難しかった、ベッドから車椅子への移乗も、どうにか一人でできるようになっていた。

食事も、どうにかスプーンでとれるようになっていた。そこで、昼だけは、車椅子で食堂に出かけて食事をとるのが、日常になっていた。

しかし、食堂には、当たり前だが同年代の人はいない。毎日見ていると、認知症が進んでいくのがよくわかる人がいる。私よりもっと重症な人もいる。

まさに、地獄絵図のようだった。

友人も、面会に来てくれた。ただ、構音障害と、上肢の障害が、まだしっかり残っていた。そのため、長い時間の面会は難しかった。

退院日も決まった。とにかく、長い入院生活が嫌で、ベッドの上で、毎日カウントダウンをしていた。

退院する

ようやく、退院の日が来た。

合計で5か月、入院していたわけだ。まあ、長い。5か月の間、まったく外に出ていない。だから、外の世界が本当に存在するのかどうかも、怪しくなっていた。

退院の日は、さすがに涙があふれた。

この生活に別れを告げなければならない寂しさ、というより、長くつらい生活が終わることへの涙だったと思う。

さらに言えば、これから始まるであろう、長い苦難の道を想像しての涙でもあったように思う。

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